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廃墟に残された掲示板の残骸

投稿時間:2002/07/25(Thu) 04:46
投稿者名:MA
Eメール:
URL :
タイトル:
解らない(続き)
要点が解りづらい書き込みでした。

・カウンセリングと宗教の関係
私はカウンセリングの場には宗教は持ち込むべきでないと考えています。中立性の維持の為に偏見が入り込むのを恐れる為です。
ただし、フロイトのいうように「心理学者は宗教を捨て去るべき」
の意見にはカウンセラー個人の私的な生き方としては賛成しかね
ます。カウンセラーも宗教を持っても良いと考えます。
しかしながら、心理学の世界で生きて宗教を持つことは困難だと
感じます。

・私の求道心
私自身は宗教を持っていたい、というか永遠なるものを信じ
安心をえたいが迷ってしまっている状態です。
様々な心理学の理論に影響されて宗教を冷めた目で見ている部分も
ありますが、私の人格形成に於いてキリスト教は別に置いて考えら
れないのです。私の一部分であることは確かです。
だからこそキリスト教徒であるべきか悩んでいます。
率直に言うと信じたいが信じる力がないのです。
あえて名前は伏せますが、私が現在入信している団体に疑問を
感じはじめているのも理由の1つでしょう。

・信仰そのものの疑問
私のカウンセリングの理論と人生の最大の謎である「愛」について
ですが、どんな表現を取ろうともどの宗教にも「愛」の定義があるように感じます。しかし私の入信している団体に限らず宗教間のスプリットから生じる憎悪はどうにも解せないのです。
所詮人間が宗教を持ち、実践して私達に姿を見せているのは、
その信仰者である人間だと思います。
どうしてそう強く感じるかというと、離婚の直前にカウンセリングに入っていた方がクリスチャンで元妻もクリスチャンでした。
そして私は異教徒に入った所でした。
その3者関係の中でカウンセリングの場が修羅場と化しました。
2者関係の繋ぎの役として3者である私が利用されたのです。
よくあるイジメの構造に似てます。
このことによって私はカウンセリングの場に宗教は持ち込むべきで
ないと確信しました。
そして、異教徒対クリスチャンの構図が生じた時に力が強かった
クリスチャンが力を持ち攻撃を加えます。(逆でも構いません)
その時に、ああ、キリスト教のいうところの「愛」とはなんなの
だろうと強く感じました。
カウンセリングを施した方の立場が宗教家であったのでなおさらで
あり、ショックでもありました。
(今となってはその方の救世主シンドロームであったと理解し許せます。)
ある教会の牧師には異教徒と解ったとたんに追い返されました。
つまり、教典を信じている人がその宗教を形づくっていると考えます。私はそこからしかその宗教を見ることが出来ないのです。
信者のパーソナリティ抜きに直接その神を信じる力はどこから来る
かを知りたいのです。
そう、神を信じる力を私は欲しています。
それは理性的な部分からではないのを感じるのです。
教会に繋がっていたい欲求はあります。
しかし、その信仰者をどうしても信じられなくなっています。
いくべき場所がないのです。
信頼できるクリスチャンと教会の出会いが。

以上


自分の気持ちを文章で表現するのは苦手なのですが、
なんとかお分かり頂けたでしょうか?
なにかアドバイスが頂けたら幸いです。


投稿時間:2002/08/02(Fri) 16:58
投稿者名:牧師
Eメール:
URL :
タイトル:
Re: 解らない(続き)
> 要点が解りづらい書き込みでした。
>
※有り難うございます。
 以下に記します。

> ・カウンセリングと宗教の関係
> 私はカウンセリングの場には宗教は持ち込むべきでないと考えています。中立性の維持の為に偏見が入り込むのを恐れる為です。

※ここで一つ問題があります。
 一体、カウンセリングは何のために、何を目的として行うのかと言うことです。そして、誰が行うのかということです。
 小生自身が、カウンセリング理論で行き詰まりを感じていることは、「中立性」というような言葉に踊らされてしまい、人間が人間として関わりを持つ働きなのだということを忘れているところにあります。
 人間が行う作業である限り、完全な中立性など存在しません。あくまでも主体的に関わるだけでしょう。いや、客観的に関われるというのなら、そんなカウンセリングが何の力も無いことをも体験されるだけでしょう。
 ここに、近代科学の毒がまだまだ蔓延しているように感じます。

> ただし、フロイトのいうように「心理学者は宗教を捨て去るべき」
> の意見にはカウンセラー個人の私的な生き方としては賛成しかね
> ます。カウンセラーも宗教を持っても良いと考えます。
> しかしながら、心理学の世界で生きて宗教を持つことは困難だと
> 感じます。

※逆でしょうね。何か骨が無い人がどうしてカウンセラーとしてしっかりした見識を持って判断できるでしょうか。小生には無宗教の人だと称する人がいたとしでも、それは何か宗教と称さないだけで、何かを踏まえて為していることには違いないと思います。基本的に人間は宗教的な存在ですから。
 そして、宗教を持っていることが、カウンセラーの働きを邪魔するとするなら、愛兄が下記のようなカウンセリング体験をなさった状況であって、これは正直のところ、カウンセリングとは思えませんが。
 キリスト教を背景としているカウンセリングであっても、基本的にはそれを押しつけたりはしないし、押しつける場合は、きちんと断ってから、カウンセリングではなく、個人伝道として行いますので、弁えを持つことが大事だと思われますが。


>
> ・私の求道心
> 私自身は宗教を持っていたい、というか永遠なるものを信じ
> 安心をえたいが迷ってしまっている状態です。
> 様々な心理学の理論に影響されて宗教を冷めた目で見ている部分も
> ありますが、私の人格形成に於いてキリスト教は別に置いて考えら
> れないのです。私の一部分であることは確かです。
> だからこそキリスト教徒であるべきか悩んでいます。
> 率直に言うと信じたいが信じる力がないのです。
> あえて名前は伏せますが、私が現在入信している団体に疑問を
> 感じはじめているのも理由の1つでしょう。
>
※今、何に入信しておられるのでしょうね。よく分かりませんが、取り敢えず、キリスト教会では無いのでしょうね。
 で、まあ、キリスト教を真剣に突き詰めて見られては如何でしょうか。率直に申しまして、今までのところは、キリスト教の入り口辺りで、躓いてしまって、本堂に入っていないような感じがします。下記のような体験はまさしく大きな躓きですね。本当に残念です。


> ・信仰そのものの疑問
> 私のカウンセリングの理論と人生の最大の謎である「愛」について
> ですが、どんな表現を取ろうともどの宗教にも「愛」の定義があるように感じます。しかし私の入信している団体に限らず宗教間のスプリットから生じる憎悪はどうにも解せないのです。
> 所詮人間が宗教を持ち、実践して私達に姿を見せているのは、
> その信仰者である人間だと思います。

※但し、この信仰者がどのていど熟しているかどうかということも問題でしょうね。針小棒大の評価になっては詰まりませんからね。


> どうしてそう強く感じるかというと、離婚の直前にカウンセリングに入っていた方がクリスチャンで元妻もクリスチャンでした。
> そして私は異教徒に入った所でした。
> その3者関係の中でカウンセリングの場が修羅場と化しました。
> 2者関係の繋ぎの役として3者である私が利用されたのです。
> よくあるイジメの構造に似てます。
> このことによって私はカウンセリングの場に宗教は持ち込むべきで
> ないと確信しました。
> そして、異教徒対クリスチャンの構図が生じた時に力が強かった
> クリスチャンが力を持ち攻撃を加えます。(逆でも構いません)
> その時に、ああ、キリスト教のいうところの「愛」とはなんなの
> だろうと強く感じました。
> カウンセリングを施した方の立場が宗教家であったのでなおさらで
> あり、ショックでもありました。
> (今となってはその方の救世主シンドロームであったと理解し許せます。)

※まあ、このような体験がきっと役に立ちますよ。

> ある教会の牧師には異教徒と解ったとたんに追い返されました。
> つまり、教典を信じている人がその宗教を形づくっていると考えます。私はそこからしかその宗教を見ることが出来ないのです。

※これは、教会によって異なりますね。

> 信者のパーソナリティ抜きに直接その神を信じる力はどこから来る
> かを知りたいのです。
> そう、神を信じる力を私は欲しています。
> それは理性的な部分からではないのを感じるのです。
> 教会に繋がっていたい欲求はあります。
> しかし、その信仰者をどうしても信じられなくなっています。
> いくべき場所がないのです。
> 信頼できるクリスチャンと教会の出会いが。

※思わず、涙が出てきました。本当に残念です。
 何で、このようなところを通るのでしょうか。
 でも、小生は愛兄を主にある兄弟として呼び続けると思います。
 これは今の時点でどういう団体におられるかどうかによらず、主イエス・キリストの十字架によって贖われた存在として、兄弟と呼ばせて下さい。
 そして、どういう形でか分かりませんが、主にあって共に歩めることを信じて祈っています。

>
> 以上
>
>
> 自分の気持ちを文章で表現するのは苦手なのですが、
> なんとかお分かり頂けたでしょうか?
> なにかアドバイスが頂けたら幸いです。

※率直な気持ちを纏めて下さり感謝しています。
 今、具体的にアドバイスできることは、聖書の世界に答えがあるということですね。現実のキリスト教や教会には矛盾もあるでしょう。でも、そのようなちぐはぐさや矛盾は、大きな鍵やヒントだということを、聖書は教えてくれているのです。というのは、聖書自身が、隙間だらけだからです。
 この隙間が大事です。
 近代文明は、隙間を嫌いました。そして論理的に整合性の取れたものが価値あるものだと誤解したのです。実は現実の中には整合性の完璧に取れたものなど、一つも存在していないのにね。
 つまり、科学というものは、大きな錯覚の上に構築されている、非常に限定的なものだということを、弁えることが必要なのです。この辺を、バランス取るには、聖書の世界が一番良いのです。
 聖書は科学の書ではありません。逆に、神が物語っておられる書です。その意味で、懐はかなり深いですよ。この辺をご一緒に味わうことができると、かなり上記のようなモヤモヤは解消するのですが。
 また、機会があることを祈っていますね。
 では、祝福を祈りつつ。

FI


投稿時間:2002/08/31(Sat) 01:58
投稿者名:
Eメール:
URL :
タイトル:
Re^2: 解らない(続き)
返信がかなり遅れてしまいました。
プライベートで問題があり、対応に追われていました。
丁寧な返信ありがとうございます。


少し心の霧が取れました。
学問に振り回されている自分がいるかも知れません。
心理学という学問で「愛」という僕の大事なシンボルを探して
いる私がいるのは確かみたいですね。
学問は学問でしかない事に気がついていませんでした。
学問に対する信仰心があるのでしょう。
学問をする者ならばその理論を疑うことから始めないといけない
のにその姿勢すらないのですからまだまだ、私は甘いですね(^◇^;)

運命論ではないですが、道は決まっていてそこに向かって歩んで
いる自分に時々気が付きます。
もう少し臨床心理学と自分の抱えている問題(病気)と格闘しながら、
「床に臨む者」としてのスタンスを作り上げないといけないでしょう。
そこで自分の問題にある決着が着いた時に教会に導かれる予感が
します。

そこで初めて精神的にこの世に生まれる事が出来ると期待しています。
もう少し時を待ちたいと思います。

あせらず、無理せず、ゆっくりと。

ご指南ありがとうございました。
なかなかこんな話が出来る方が周りにいないので。
嬉しかったです、とても。

学費の捻出で京都にはなかなか遊びにいけませんが、
九州に来られるときは声を掛けてください。
少しでもお会いしたいです。

それでは、ごきげんよう。


投稿時間:2002/08/31(Sat) 11:39
投稿者名:牧師
Eメール:
URL :
タイトル:
Re^3: 解らない(続き)
> 返信がかなり遅れてしまいました。
> プライベートで問題があり、対応に追われていました。
> 丁寧な返信ありがとうございます。
>
>
> 少し心の霧が取れました。
> 学問に振り回されている自分がいるかも知れません。
> 心理学という学問で「愛」という僕の大事なシンボルを探して
> いる私がいるのは確かみたいですね。
> 学問は学問でしかない事に気がついていませんでした。
> 学問に対する信仰心があるのでしょう。
> 学問をする者ならばその理論を疑うことから始めないといけない
> のにその姿勢すらないのですからまだまだ、私は甘いですね(^◇^;)
>
> 運命論ではないですが、道は決まっていてそこに向かって歩んで
> いる自分に時々気が付きます。
> もう少し臨床心理学と自分の抱えている問題(病気)と格闘しながら、
> 「床に臨む者」としてのスタンスを作り上げないといけないでしょう。
> そこで自分の問題にある決着が着いた時に教会に導かれる予感が
> します。
>
> そこで初めて精神的にこの世に生まれる事が出来ると期待しています。
> もう少し時を待ちたいと思います。
>
> あせらず、無理せず、ゆっくりと。
>
> ご指南ありがとうございました。
> なかなかこんな話が出来る方が周りにいないので。
> 嬉しかったです、とても。
>
> 学費の捻出で京都にはなかなか遊びにいけませんが、
> 九州に来られるときは声を掛けてください。
> 少しでもお会いしたいです。
>
> それでは、ごきげんよう。


投稿時間:2002/08/31(Sat) 12:00
投稿者名:牧師
Eメール:
URL :
タイトル:
済みません。間違えました。
感謝です。

少しでもお役に立ったようで、嬉しいです。
小生も今大学院で学びつつ、色々なことが開けてきています。

学問の凄さや、素晴らしさというものを感じつつ、その限界や陥穽を見落としてはならないことも実感しているのです。

人生は学び続ける営みですから、生涯この意識を大事にしていきたいと思います。

牧師ですから、救われる人が一人でも増えることを願っています。
その中で、今年は大きな変化を生み出しました。

それは、キリスト教の前提です。
話せば長くなりますので、はしょって申しますなら、全ての人間は、キリスト者であるかどうかは区別なく、神の子として創造された者だということを、はっきりと語られるようになったということです。
これがあるかないかで、キリスト教の福音の提示の仕方が変わります。
キリスト者として生きていることが、未信者の人たちとどう違うのかということも、殊更区別的に、はっきりいうなら、差別的に捉えることも無くなります。本当に全ての人に開かれた福音になるのです。感動しています。
何のことはない、聖書にちゃんと記載されているんですね。

これは西欧を通って入ってきた、国教化したキリスト教の弊害をやっと抜け出したということです。本来のキリスト教はこういうものなのです。
単純に西欧化したキリスト教ではなく、問題の根っこは国教化したところにあったのですね。
ですから、10月から、私たちの教会は、聖餐式をキリスト者に限った在り方を止めることにしました。国教としてキリスト教を受け止めていないからです。そして、信者と未信者を殊更に区別して、排除する必要がないからです。却って、異教の地ですから、全ての人に開かれた福音、恵みにしたいです。
ということで、聖餐式には、その日初めていらした方でも、恵みに与りたいと願う方は誰でも受けることが出来るようになります。
プロテスタント教会でも、これはかなり画期的なことだと思います。

キリスト教が国教になることは、政治の道具と化してしまうことだということが、こういうキリスト教の教義の成立においてもよく分かりました。
これはこの1年半、大学院で学んだ成果です。
学んだことが、直接この教会に生きていく。
これは本当に学び甲斐のあることですね。
最高に幸せですよ。

愛兄も、学んだことが、自分自身に、取り分け「床に臨む機会」に十分活かされていきますように、祝福を祈ります。
頑張って下さいね。

再会を楽しみにしています。ハレルヤ!!


投稿時間:2002/09/02(Mon) 08:04
投稿者名:
Eメール:
URL :
タイトル:
Re: 済みません。間違えました。
今、ユングの「元型論」という著書を読んでいます。
まだ途中なのですが、その中でキリスト教のプロテスタント教会の
誕生により、教派が無数に誕生し崩壊へと進んでいると書いてました。
要は西洋人がシンボルを失ったと述べています。
そこで人はシンボルを欲するという理屈から、東洋へとシンボルを
求めていると書いていました。
東洋思想に影響を受けた神秘家と言われるユングらしいのですが、
シンボルをキリスト教でいう所の偶像(仏教でいう本尊?)を
人々は求めているという事の様です。
1つ疑問なのですが、シンボルをプロテスタントになって失ったと
いうことはカトリックではシンボルがあったということになると思う
のですが、そのシンボルとは何でしょうか?
いわゆる権力やその他に象徴される現世界の「力」の事を指して
いるのでしょうか?
ちょっとそこの所が解りませんでした。

私見ですが、人は仏教的なシンボルがあると信仰心は持ちやすいな
とは思いました。
しかし、深い所で考える人にはそういったシンボルは虚しく感じて
しまうのは私だけでしょうか?
象徴としてのシンボルならサインとして機能はするでしょうが、
それ自体を拝んでいるのはちょっとどうかと感じています。

大学の講義で宗教学というのがあるので聴講してみようとは思いますが
キリスト教を体系的に学べる物で良い物があればご教示ください。
NHKの講座でやっている様な物でなく、深く掘り下げて学べる物があれば、きちんと学んでみたいと思います。


投稿時間:2002/09/02(Mon) 12:25
投稿者名:牧師
Eメール:
URL :
タイトル:
Re^2: 済みません。間違えました。
> 今、ユングの「元型論」という著書を読んでいます。
> まだ途中なのですが、その中でキリスト教のプロテスタント教会の
> 誕生により、教派が無数に誕生し崩壊へと進んでいると書いてました。
> 要は西洋人がシンボルを失ったと述べています。
> そこで人はシンボルを欲するという理屈から、東洋へとシンボルを
> 求めていると書いていました。
> 東洋思想に影響を受けた神秘家と言われるユングらしいのですが、
> シンボルをキリスト教でいう所の偶像(仏教でいう本尊?)を
> 人々は求めているという事の様です。
> 1つ疑問なのですが、シンボルをプロテスタントになって失ったと
> いうことはカトリックではシンボルがあったということになると思う
> のですが、そのシンボルとは何でしょうか?
> いわゆる権力やその他に象徴される現世界の「力」の事を指して
> いるのでしょうか?
> ちょっとそこの所が解りませんでした。
>
> 私見ですが、人は仏教的なシンボルがあると信仰心は持ちやすいな
> とは思いました。
> しかし、深い所で考える人にはそういったシンボルは虚しく感じて
> しまうのは私だけでしょうか?
> 象徴としてのシンボルならサインとして機能はするでしょうが、
> それ自体を拝んでいるのはちょっとどうかと感じています。
>
> 大学の講義で宗教学というのがあるので聴講してみようとは思いますが
> キリスト教を体系的に学べる物で良い物があればご教示ください。
> NHKの講座でやっている様な物でなく、深く掘り下げて学べる物があれば、きちんと学んでみたいと思います。


投稿時間:2002/09/06(Fri) 14:03
投稿者名:AT
Eメール:
URL :
タイトル:
突然の割り込みを失礼します
敬愛する先生


こんにちは。ATです。
突然の割り込みを大変失礼します。
I先生のお働きやお考えから学ばせていただくために、時々ホー
ムページを拝見させていただいております。
特に、この掲示板での質問などに対するお答えは興味津々です。
いつもは黙って拝読させていただいているのですが、浅井様とのやり
とりでのこのお考えに対して疑問を持ちましたので、このように書き込
みさせていただきました。

話せば長くなるのでということですが、もっと詳しく聞かなければ、
なぜ「聖餐式」をノンクリスチャンにもという結論に至られたのか納得
しかねます。

日本バプテスト連盟のある教会では、すべての人に開かれた聖餐式を
行なっているところがありますが、ほとんどリベラル神学の影響を受け
ています。

もちろん人間はすべて神に造られたのですが、堕落しているというこ
とを見落としてはならないと思います。
人間はみな勘当された子どもなのです。しかし、キリストの十字架が
与えられ、立ち返った(返らされた)ときに、もう一度ほんとうの意味
で子どもとなるのではないでしょうか?
聖書の神は契約の神であり、聖餐式はこの契約を更新するためのもの
です。ですから契約の中にない人々が聖餐式にあずかることは非聖書的
なことだと考えます。(聖書は契約の中の人と外の人をはっきり区別し
ていると思います。)

私は国教の功罪については歴史を十分学んでいないので何も言えませ
んが、誰の見た歴史観かは大きく結論を左右します。ですから、私たち
プロテスタントは「ソーラ スクリプトゥラ」(聖書のみ)に立ち、す
べてを判断していくのではないでしょうか?

同じ日本を愛する牧師・伝道師として滅び行く魂に届きたいという願
いは同じように持っているつもりですが、先生の熱い願いが聖書の教え
を超えないことを願うばかりです。

ハーザー誌ではセカンドチャンスのことが問題になっていますが、久
保師も救霊の思いあまってセカンドチャンスを受け入れる立場に立って
おられるように思います。

同じ延長線上にI先生のお考えがあるように感じてしまうのは私
の思い過ごしでしょうか?

たぶんI先生にこのように噛み付く?人もいないでしょうが、友
達としてひとこと書かせていただきました。


投稿時間:2002/09/06(Fri) 21:45
投稿者名:牧師
Eメール:
URL :
タイトル:
Re: 突然の割り込みを失礼します
親愛なるT先生。

感謝します。
とても、適切な問いかけを下さって有り難うございます。

まず、申し上げますが、小生の聖餐式に関する理解は、セカンド・チャンスの論議とは異なっています。単に救いのチャンスを広げよう、というような視点で申しているのではありません。
そうではなくて、もっと聖書に直接聞こう、聖書自体からどう読み出してくるのか、それを歴史的なキリスト教を背負っている者として、率直に見直すべきは見直す謙虚な姿勢を持つべきではないか、ということです。

でも、愛師のような問いかけを出して戴くことが、実はこの論議を深める上で不可欠でした。ということで、御礼を申し上げた次第です。

今後、ウィークリィのエクレシアで、5回に渡ってこのことについては、論じます。国教の部分は、これでご理解頂けるのではないかと思います。
そして、国教化したキリスト教からの脱却は、やはり聖書から率直に読み出すことからなされると提言します。
つまり、西欧化した、つまりゲルマン捕囚にあったキリスト教ではなく、また、単なるキリスト教を非神話化して終わってしまう堕落したリベラル神学ではなく、日本人として、そして一人のキリスト者として、聖書を率直に読み直す中でつかみ取ってきたものとして、提言したいと思っているのです。

ウィークリィはお送りしていましたかね。
もし、未だでしたらお送りします。

それと、エクレシアはこのHPでも、見ることができます。
10月6日号までで、一応の提言は纏めました。
この辺で、ご感想なり、また反論なり、頂けると光栄です。

それと、蛇足ながら、この辺は今後修士論文やSIGNSの論文などにも関連して行きます。是非、それらも合わせてお読み下さると感謝です。

今年のSIGNSは10月に発行されますが、ペンテコステ・カリスマ運動の人々には刺激的な題名です。
愛師には、特別に申し上げるなら、

『異言は単なる徴ではない−歴史神学的見地からの再検証−』

ということにしております。
面白そうでしょう。小生の修士論文にも繋がっていくのですが、主が不思議にこのような展開を下さっているのですね。
取り分け、アメリカに関しての学びが深まりました。
アメリカを良きに付け、悪しきにつけ、バランスをもって見れるようになったのです。
今の子ブッシュは、独善的とも思える位、自分を正義と言っていますね。
これはあの国を押さえるためには、不可欠なのです。
これに失敗したのがジョンソンなのですね。
彼はマッカーシー旋風にホトホト懲りていたのです。それがベトナム戦争を正義の戦争だと言い切ることに、躊躇させました。
ここが面白いところで、そのお陰で、公民権運動は進み、アメリカが大きく舵を切るような時代が生まれました。

ということを考えると、アメリカが戦争をするとき、国ががたつかないようにする常套手段なのですね。正義の傘を着るのが。
特に、今回は正義が疑わしいので、殊更頑張っているという訳です。

まあ、こんなことが学びの中から次第に見えてきているのです。面白いですか。自分だけが面白がって、悦に入ってしまわないように、要注意ですね。

また、是非いらして下さい。
祝福を祈りつつ。


投稿時間:2002/09/07(Sat) 07:42
投稿者名:T A
Eメール:oxoxox@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:
Re^2: 突然の割り込みを失礼します
I先生

掲示板のレスとともに、メールも頂戴し、ありがとうございました。
拝読させていただいたあと、コメントをさせていただきます。

今日、明日とお忙しいこととは存じますが、主の祝福がございますように。

TA


投稿時間:2002/09/08(Sun) 16:21
投稿者名:牧師
Eメール:
URL :
タイトル:
Re^3: 突然の割り込みを失礼します
> I先生
>
> 掲示板のレスとともに、メールも頂戴し、ありがとうございました。
> 拝読させていただいたあと、コメントをさせていただきます。

※有り難うございます。
 心から嬉しく感謝申し上げます。
 この日本という異教の地で、キリスト教の本筋がはっきりとし、また、多くの日本人が深くキリストの救いを受け止められるように、励んでいきたいと思います。

> 今日、明日とお忙しいこととは存じますが、主の祝福がございますように。
>
> TA

※後、ヤドカリ兄が、小生のコメントに対して、適切なご指摘を下さっています。そこにも、少し丁寧に申し上げておきました。合わせまして、お読み頂けると幸いです。
 祝福を祈りつつ。


投稿時間:2002/09/09(Mon) 17:08
投稿者名:T A
Eメール:oxoxox@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:
Re^4: 突然の割り込みを失礼します
I先生

送っていただいたもの読ませていただいてコメントを先生のメールにお送りしました。

こちらに貼り付けるのは現在のところやめておこうと思いました。
必要ならば貼り付けますが、、、、、

先生のコメントお待ちしています。

TA


投稿時間:2002/09/09(Mon) 23:24
投稿者名:ヤドカリ
URL :
タイトル:
Re^5: 突然の割り込みを失礼します
> I先生
>
> 送っていただいたもの読ませていただいてコメントを先生のメールにお送りしました。
>
> こちらに貼り付けるのは現在のところやめておこうと思いました。
> 必要ならば貼り付けますが、、、、、
>
> 先生のコメントお待ちしています。
>
> TA

T様

ご自分の責任で発言できないのなら、沈黙なさることを助言いたします。

一介の信徒たる私は、この教会での「教会生活」(こんな言葉あるんかな?)をかけて投稿しています。

あなたの最初の投稿は、それなりに、あえてこの言葉を用いますが、それなりに真剣な問いかけではなかったのですか?それが突如、I師の体面なのですか?それともご自身の体面?あるいは私達信徒への配慮?何が原因であれ、自分の責任において発言できなくなって、I師に責任を負わせようとしておられるように見受けられます。

もし、そのような配慮が必要であると判断されたならば、DMで直接やり取りされるべきではありませんか?そして事前にI牧師の承認を得た上で、表向きは何事もなかったかのようにあなたのご意見をこの場に発表されればよかったのです。それをわざわざ、この掲示板上でI師の了解を求めている。これを責任逃れといわずして何を責任逃れと呼ぶんでしょうか。

このような無責任な書き込みは、体一杯の不安を覚えながら、勇気を振り絞って書き込みをしている信仰者や、求道者への侮辱になるとはお考えになりませんか?

ヤドカリことこの教会HP管理人事務取り扱いCaptain Eagle


投稿時間:2002/09/10(Tue) 00:04
投稿者名:T A
Eメール:oxoxox@yahoo.co.jp
URL :
タイトル:
Re^6: 突然の割り込みを失礼します
ヤドカリ様

私へのレス拝見しました。

> ご自分の責任で発言できないのなら、沈黙なさることを助言いたします。

初めからこのことばは厳しいですね。

> 一介の信徒たる私は、この教会での「教会生活」(こんな言葉あるんかな?)をかけて投稿しています。

I先生の友人として私も友人関係をかけて投稿いたしました。


> あなたの最初の投稿は、それなりに、あえてこの言葉を用いますが、それなりに真剣な問いかけではなかったのですか?それが突如、I師の体面なのですか?それともご自身の体面?あるいは私達信徒への配慮?何が原因であれ、自分の責任において発言できなくなって、I師に責任を負わせようとしておられるように見受けられます。

もちろん初めから真剣な問いかけです。実名で投稿していますから。
インターネットの掲示板は公のものですから、I先生の聖餐式に関する書き込みは公のものと判断し投稿しました。しかし、「Re4」に関しては、確かにI先生とメンバーの方々のことを考え、引いてしまいました。


> もし、そのような配慮が必要であると判断されたならば、DMで直接やり取りされるべきではありませんか?そして事前にI牧師の承認を得た上で、表向きは何事もなかったかのようにあなたのご意見をこの場に発表されればよかったのです。それをわざわざ、この掲示板上でI師の了解を求めている。これを責任逃れといわずして何を責任逃れと呼ぶんでしょうか。
>
> このような無責任な書き込みは、体一杯の不安を覚えながら、勇気を振り絞って書き込みをしている信仰者や、求道者への侮辱になるとはお考えになりませんか?

ヤドカリ様を含め、「Re4」の書き込みに対してこのようにお感じになられた方がおられましたら、お許しください。

TA


投稿時間:2002/09/10(Tue) 17:04
投稿者名:ヤドカリ
URL :
タイトル:
Re^7: 突然の割り込みを失礼します
T様
早速レスをありがとうございます。


> ヤドカリ様
>
> 私へのレス拝見しました。
>
> > ご自分の責任で発言できないのなら、沈黙なさることを助言いたします。
>
> 初めからこのことばは厳しいですね。

「言葉は」の「は」はこの文脈では「対比」を表すように思いますが、Tさんは、「言葉」と何を対比しておられるのでしょうか?つまり、「ことばは厳しいですが、○○はやさしい」とか、なにか言外に含みがあるような気がいたします。あるいは、ここは単に、「最初からことばが厳しいですね」のおつもりだったのでしょうか?
とりあえず、後者であったという理解で書かせていただきます。

はたして、厳しいことばでしょうか?Tさんご自身が下の方でおっしゃっておられるように、あなたのRe4の書き方は、「ひいてしまった」ものであり、仮に、あなたの問いかけにI師が「どうぞ出して下さい」という投稿をされたのを見て、その内容を発表した場合、あなたは、ご自分の発言でありながら、「いや、あれはI師が出していいと言ったから出したのだ」といつでも逃げを打つことが可能になります。

また仮にI師が何も返さなかった場合、私のような第三者は、「I師は論駁できぬほど論破されたのだ」という印象を持ちかねない。

いずれの場合もあなたはご自分にふりかかる火の粉を可能な限り小さくし、「無傷」で高みにいられる、そういう無意識の計算が働いているように思われ不愉快でした。また、


> > このような無責任な書き込みは、体一杯の不安を覚えながら、勇気を振り絞って書き込みをしている信仰者や、求道者への侮辱になるとはお考えになりませんか?
>
> ヤドカリ様を含め、「Re4」の書き込みに対してこのようにお感じになられた方がおられましたら、お許しください。


という書き込みも、私はいったい何を許せばよいのかわかりません。私には無責任を絵に書いたようなものにしか思えないRE4の投稿はいまだそのままあります。したがって、あなたのこのことばは、「気分を害してしまったなら許してくれ、しかし、私は自分の書き込みはあれで正当なものであったのだ」と言っておられるのでしょうか?

しかし、I師不在のまま、私達がことばを交わしていてもおそらく何も生み出せないように思いますので、I師が、神学校への出張から戻られるまで、しばらく、この話題はお休みにしませんか?

I師は、今週は松山の神学校で教鞭をとっておられますので、おそらく数日はこの掲示板もチェックできないでいると思われます。
 
主よ、祈りの中でTさんと共にあなたの中にある喜びを感謝します。どうか、これからも共に主にある者として、互いに違いは違いと認識しあいながらもあなたと一つとされる喜びの中で確かな兄弟として歩むことができますように助け導いてください。
イエスのお名前により
アーメン


投稿時間:2002/09/11(Wed) 04:46
投稿者名:ヤドカリ
URL :
タイトル:
お詫びと訂正
T様

一点、トンでもない読み違えをしていることに気づきました。

> > 初めからこのことばは厳しいですね。
>
> 「言葉は」の「は」はこの文脈では「対比」を表すように思いますが、Tさんは、「言葉」と何を対比しておられるのでしょうか?つまり、「ことばは厳しいですが、○○はやさしい」とか、なにか言外に含みがあるような気がいたします。あるいは、ここは単に、「最初からことばが厳しいですね」のおつもりだったのでしょうか?
> とりあえず、後者であったという理解で書かせていただきます。

この部分で、「この」を読み落としていました。申し訳ありません。「別の書き方もあっただろうに」ということですね。よくわかります。したがって、私のRe7の書き込みのうち、以下の部分はまったく不適切なものでありました。ここに謹んでお詫び申し上げ、撤回させていただきたく思います。

> 「言葉は」の「は」はこの文脈では「対比」を表すように思いますが、Tさんは、「言葉」と何を対比しておられるのでしょうか?つまり、「ことばは厳しいですが、○○はやさしい」とか、なにか言外に含みがあるような気がいたします。あるいは、ここは単に、「最初からことばが厳しいですね」のおつもりだったのでしょうか?
> とりあえず、後者であったという理解で書かせていただきます。

お許しください。
やどかり


投稿時間:2002/09/11(Wed) 21:28
投稿者名:HG
Eメール:
URL :
タイトル:
拙い意見でもうしわけないのですが。
HG
です。
この教会の信徒です。
神学的なことは、よく分かりませんので、なんとも言えないのですが、I師が大学院やアメリカで学ばれたことなどが、今回のチャレンジの基盤になっていると感じております。信じるところ、進んでください。
 ただ、ヤドカリ氏の書き込みにもありましたが、唐突な気がしないでもありません。例えば、臨時に公聴会(信徒総会??)をひらくなりして、信徒の意見等をひろう場をもうけてもよかったのかもしれませんね。個人的には、おそらく長老会・スタッフ会などに図られたものと思いますので、決定までの経緯報告を望みます。
また、この事柄を実施した成果・問題点などは、来年の信徒総会において総括・報告なされることを希望します。
 また、メジャーなキリスト教の研究誌なりに論文を発表し、この動きが、単に一教会にとどまることなく、公論に付すことで、聖餐式を見つめ直す建設的な働きになればなあ、とも思ったりします。

T様
書き込み、本当に感謝しています。匿名・ハンドルネームの陰に隠れ、悪口・誹謗中傷がうごめく中、実名で投稿されましたこと、建設的かつまとまりのあるご意見をお読みし、すごいなあ、と思わされました。I師をいかに大切に思ってくださり、心配してくださっておりますこと、御礼申し上げます。「非聖書的」と切り捨てるのではなく、暖かい目で見てくだされば幸いに存じます。また、研究誌において論文などのやりとりを是非、やってくださり、議論の輪を広げ、この衰退・老齢化の危機に直面している日本における基督教の活性化につなげていただければ、と思わされております。
 最後に私見を。僕にとって、かつては、聖餐式はあまり、印象深い行事で無かったような気がします。それは、一年に一度、年始めにしかなされていなかったからだと思います。
 あわせて、8年前、近畿圏でも比較的規模の大きい、有名な教会で聖餐の場にお預かりしたことが、あったのですが、すごく「明るい」という印象を受けました。あまり、他の教会に行ったことの少ない僕が書くのはなんなんですが、統一された画一的なスタイルはないんだなあと思った記憶があります。
 聖餐式が個々の牧師の判断で異なるのは問題でなくって、むしろ、一定の長期間にわたり、同じ顔ぶれ、同じメンバーで繰り返しなされる聖餐式のほうが、「??」だと思います。つまり、「日々仲間が加わらない」状況でなされる聖餐式の方がよっぽど「危機的」な状況と思ったりもします。他の教会・教勢を知らない者が想像でかきこむのはいかんかもしれませんが、このような状況の教会が意外とあるのではないか?現状では、そんな気がします。
 今回の事柄は、新来者なり、求道者なりが疎外感を感じることなく、聖餐式に集う方法としては、一つの選択肢のような気がします。
この議論が「不毛な」神学論争にならないことを願います。
拙い意見で申し訳ありません。他の信徒の方がどう思っておられるかは存じません。芳言個人の意見であることを念のため申し添えます。


投稿時間:2002/09/17(Tue) 12:30
投稿者名:牧師
Eメール:
URL :
タイトル:
Re: 拙い意見でもうしわけないのですが。
※以下は、T師、ヤドカリ氏、HG氏のコメントを踏まえてお答えすることに致します。
 レスが遅れましたこと、まずお詫び致します。
 ヤドカリ氏のご指摘通りです。後、体調がこのところ余り良くなく、これもあって遅くなりました。ご容赦下さい。後、コメントは以下に記します。

> HGです。

> 神学的なことは、よく分かりませんので、なんとも言えないのですが、I師が大学院やアメリカで学ばれたことなどが、今回のチャレンジの基盤になっていると感じております。信じるところ、進んでください。

※感謝です。
 今までの論議に出て参りましたものは、大切なご意見だと思います。但し、唐突ではなく、昨年までのこの教会の営みにおいて、聖餐式の度に、また連続講解説教の中で、聖餐の原型となった最後の晩餐、およびパウロ書簡の該当箇所をお分かちしてきたことがベースになりました。
 そして、ヤドカリ氏のコメントにも申し上げましたが、この教会を創始した時に、いくつかの踏み込みを致しました。その中で際立って重要であったのが、未だ受洗しておられない方々であっても、心で信仰を持って近々受けたいと願われる方は『特別に』与って頂く方式にしたことです。
 これが第一段階でこの5年間実施してきたものです。
 実は、T師に取りましたら、これでも随分と踏み込んだことではないかと思います。実際、礼拝の実践神学の論議においても、未だ決定打が出ていないことであるからです。
 でも、この方式には恐らくこの教会の兄姉は慣れ親しんで来たと思われます。だから、この教会になって試み始めたものではありますが、この教会において定着した事柄だといえましょう。
 それと、「試み」という言葉に拘ってしまうこともあろうかと思います。ヤドカリ氏も、I牧師の思うままに、気ままな改革になりはしないかと危惧して頂いています。でも、存在を賭けて、試みる中でしか、本物はつかめないことも事実でしょう。この教会が”On The Way To Heaven Church”であるということは、とりもなおさず、完成を目指して前進、成長、変化しつづけるということに他なりません。したがって、これは完璧なもの、非の打ち所の無いものだというような、傲慢な姿勢はとりえないし、とってはいけないという意味が含まれていることは、ご理解ください。
 そして、単に気ままな変更に陥らないために、神学という一つの計りが与えられているのです。人間は愚かですから、気ままを聖霊の導きと称して、適当な動かし方をすることがありますし、ありました。そうならないために、神学が構築されてきたということは、歴史の中で見ることができます。

>  ただ、ヤドカリ氏の書き込みにもありましたが、唐突な気がしないでもありません。例えば、臨時に公聴会(信徒総会??)をひらくなりして、信徒の意見等をひろう場をもうけてもよかったのかもしれませんね。個人的には、おそらく長老会・スタッフ会などに図られたものと思いますので、決定までの経緯報告を望みます。

※従いまして、基本的に変えるのは一時ですが、決して唐突なものではなく、この教会の営みと軌を一にしたものであることは申し添えます。それと、こういう問題は信徒総会を開いて決めることではありませんし、教会の歩みを実際に担っているスタッフ会で決めました。この教会については、それでよいと思います。
 それと、こういう質問が出ることは、一つのことを教えています。それはこの教会になってから、グレード・アップ・セミナー、ポリッシュ・アップ・セミナー、そして初級講座と、セミナーを実施してきました。
 この内容を踏まえてのことであることは、自明です。ですから、流れとしては、きちんと踏まえてきたのだということはご理解ください。
 で、それを今年全面的に改定し、この教会第二期に相応しくリニューアルを始めております。New Creation Seminarと成長セミナーに結晶させていますので、これを受講なさることをお勧めします。
 この教会はいろいろな過去を背負っています。それを踏まえないでは歩んでいけないのです。これが歴史化された聖霊の実体の一つであるこの教会という教会の実情です。
 
> また、この事柄を実施した成果・問題点などは、来年の信徒総会において総括・報告なされることを希望します。

※ですので、この事柄については、New Creation Seminarや成長セミナーで是非問いかけ、学んでください。宜しくお願いします。

>  また、メジャーなキリスト教の研究誌なりに論文を発表し、この動きが、単に一教会にとどまることなく、公論に付すことで、聖餐式を見つめ直す建設的な働きになればなあ、とも思ったりします。
>
※これにつきましては、今後そのような方向性で打ち出されていくことと思います。大変建設的な方向性になると思います。

> T様
> 書き込み、本当に感謝しています。匿名・ハンドルネームの陰に隠れ、悪口・誹謗中傷がうごめく中、実名で投稿されましたこと、建設的かつまとまりのあるご意見をお読みし、すごいなあ、と思わされました。I師をいかに大切に思ってくださり、心配してくださっておりますこと、御礼申し上げます。「非聖書的」と切り捨てるのではなく、暖かい目で見てくだされば幸いに存じます。また、研究誌において論文などのやりとりを是非、やってくださり、議論の輪を広げ、この衰退・老齢化の危機に直面している日本における基督教の活性化につなげていただければ、と思わされております。

※そうですね。このことは、T師にも覚えていただきたいと思います。ある意味で、サインズという研究誌が身近にございますので、是非論文を投稿いただけると嬉しいですね。是非掲載を考えたいと思います。論議がいっそう骨太になっていくことでしょう。楽しみです。


>  最後に私見を。僕にとって、かつては、聖餐式はあまり、印象深い行事で無かったような気がします。それは、一年に一度、年始めにしかなされていなかったからだと思います。

※そのとおりです。ですから、この教会の歴史では、帰省中の方々はほとんど聖餐式自体を受けたことが無かったのです。これもペンテコステ派ですから、あまり気にしないできましたが。実際上は、聖餐式の重みは、ほとんど無かったに等しいのです。
 これからするなら、この教会で毎月一度行われるようになったことは、画期的な大改革であったと言うことができるでしょう。
 そして、一、二年目から、礼拝の中で「主の祈り」を用いるようになったのも、大変大きな改革でありました。これは聖餐式の内容の変革と一体で行ったものでした。
 そして、一番留意したことは、イエス・キリストの名前で洗礼を施すことでした。これには、サインズ第4号、つまり2000年号に結晶しました。でも、当然ながら、実践は1997年4月から始まっているのです。ということで、今回のことも私たちの歩みにおいては、特異なことではないと言えましょう。ある意味で、こういうやり方しかできない教会であり、教会性であるということもご理解頂きたいと思います。
 また、この辺りの詳細は従来から、受洗準備講座や初級講座などで学んでおりました。今回からNew Creation Seminarに取り込んでおりますので、是非学んでくださることをお勧めします。


>  あわせて、8年前、近畿圏でも比較的規模の大きい、有名な教会で聖餐の場にお預かりしたことが、あったのですが、すごく「明るい」という印象を受けました。あまり、他の教会に行ったことの少ない僕が書くのはなんなんですが、統一された画一的なスタイルはないんだなあと思った記憶があります。

※そうですね。実はやり方というのは、多岐にわたります。それぞれの教会が特徴をもった聖餐式を行っているのですね。

>  聖餐式が個々の牧師の判断で異なるのは問題でなくって、むしろ、一定の長期間にわたり、同じ顔ぶれ、同じメンバーで繰り返しなされる聖餐式のほうが、「??」だと思います。つまり、「日々仲間が加わらない」状況でなされる聖餐式の方がよっぽど「危機的」な状況と思ったりもします。他の教会・教勢を知らない者が想像でかきこむのはいかんかもしれませんが、このような状況の教会が意外とあるのではないか?現状では、そんな気がします。

※そうですね。日本というキリスト教が国教ではない国には、それなりのキリスト教適応があっても良いと思います。

>  今回の事柄は、新来者なり、求道者なりが疎外感を感じることなく、聖餐式に集う方法としては、一つの選択肢のような気がします。
> この議論が「不毛な」神学論争にならないことを願います。
> 拙い意見で申し訳ありません。他の信徒の方がどう思っておられるかは存じません。芳言個人の意見であることを念のため申し添えます。

※いえいえ、有難うございました。HP上で、公開するには、お恥ずかしいようなつたないレスポンスですが、取り急ぎお答え致します。
 それと、T師がメールを下さいましたのにも、近々返信申し上げる次第です。もし、HP上に掲載下さるなら、返信を踏まえてしていただくと、より健全な論議になろうかと存じます。宜しくお願い申し上げます。


投稿時間:2002/09/17(Tue) 12:32
投稿者名:牧師
Eメール:
URL :
タイトル:
Re^5: 突然の割り込みを失礼します
> I先生
>
> 送っていただいたもの読ませていただいてコメントを先生のメールにお送りしました。

※確かに受け取りました。
 先週は神学校中でして、レスが送れています。お許しください。

> こちらに貼り付けるのは現在のところやめておこうと思いました。
> 必要ならば貼り付けますが、、、、、

※そうですね。せっかくですから、レスをお返ししてから、何かコメントをいただけるとよろしいのではないでしょうか。

> 先生のコメントお待ちしています。
>
> TA

※現在、今秋発行のサインズの原稿に追われています。何とか近々返信しますので、今しばらくお待ちください。
 祝福を祈りつつ。


投稿時間:2002/09/07(Sat) 08:20
投稿者名:ヤドカリ
URL :
タイトル:
Re^2: 突然の割り込みを失礼します
ヤドカリです。
Tさんに続いて私も割り込みさせてください。
これは手続きに関する質問ですが、教会が長い間実践してきた礼拝儀式のあり方を大きく変更しようとする時、信徒に対する事前の説明はなされないものなのでしょうか。聖餐式は、洗礼式と並んでキリスト者としての信仰の根幹に関わる儀式の一つのはずですが、その意味付けというかあり方を変えようというのなら、教会に集うすべての信徒が、何故 を事前に確実に納得できるよう十分な配慮がなされるべきなのではないのでしょうか。

先週の礼拝で来月から聖餐式を誰にでも開かれたものにするという先生の発表を聞いた時点では、私は、自分がイギリスに行って休んでいた3度の聖日礼拝の間にその説明がなされていたのだろうか?それにしてもこれからは、たとえば、「ワシは別に罪びとではないが、日本の神道よりも古いというキリスト教の『恵み』というかご利益にもあずかりたいからそのパン切れを食べさせてくれ」というランニングに腹巻ステテコのおっちゃん(ご利益を求めるこういうケースはまだ許せるかもしれない)やら、「よし、それがただのパンであって、2000年も昔に死んだイエスなる人物の身体などではないことを証明してやる、ワシにも食わせろ」というような輩などと並んで聖体拝受にあずかることになるのだろうか???こりゃ大変なことになった、と思っていました。
 しかし、次の書き込みを読むと、どうやらそうではないようです。

> 今後、ウィークリィのエクレシアで、5回に渡ってこのことについては、論じます。国教の部分は、これでご理解頂けるのではないかと思います。
> そして、国教化したキリスト教からの脱却は、やはり聖書から率直に読み出すことからなされると提言します。
> つまり、西欧化した、つまりゲルマン捕囚にあったキリスト教ではなく、また、単なるキリスト教を非神話化して終わってしまう堕落したリベラル神学ではなく、日本人として、そして一人のキリスト者として、聖書を率直に読み直す中でつかみ取ってきたものとして、提言したいと思っているのです。

つまり、こんな大切なことに関し、教会の軌道変更をしようというのに、その事前の説明はまったくなかった。これから五回に分けて説明をするからしっかり聞いておけとおっしゃっておられるようです。しかもその説明の最後の仕上げは次の聖餐式の当日に配布されるエクレシアでする????
じゃ、もしその説明に納得いかなかったら、私は当日の朝になって教会に行ってから、これじゃ困るから帰りますということになるのでしょうか?そうなったら、その日の聖日礼拝はどうしたらいいんでしょう?

それとも、平信徒の私には、難しい神学の話などわかるはずもないから、考えるのは、牧師達に任せて、とにかく盲目的に牧師について来いとそうお考えなのでしょうか?

昔、京都福音教会を中心として結成された教団がありましたね。女子に髪を切らせず、化粧もさせず、肌をあらわにすることは罪だからと水泳もさせなかったようですが、最近はみんな髪を切ったり、こてこてにお化粧したりしてるみたいですが、あれもある日「教職者」の先生方が、「実は私達の信仰はもともとこんなんじゃなかったんです。宣教師がそうせいっちゅうからしょうことなしにしてきたんです」とか何とか言って方針転換してしまったみたいでしたね。

> それと、エクレシアはこのHPでも、見ることができます。
> 10月6日号までで、一応の提言は纏めました。
> この辺で、ご感想なり、また反論なり、頂けると光栄です。

私が一番ひっかってるのは、外に対しては「提言」、それもまだこれから本格的に提出されようとする提言でしかないものを、内においてはいきなり実践してしてしまう点です。仮に私がこの教会でしか礼拝をまもることがない、それこそルターを庇護したどこかの領主が身ぐるみ支配していた領民であれば、そんな心配は無用なのですが、私はよく旅先の教会で礼拝を守らせていただいています。その時に、あなたの教会は、信仰告白もしていない人にまで聖餐式にあずからせているそうですね。どうもそういう教会の方と聖体を分け合うことはちょっと控えさせていただきたいなどと言われる可能性が高まる気がいたします。現に、カトリックの神父の一部には、ペンテコステの群れにはユーカリストを拒む者がいます。今後そういう聖職者が増えるのではないか、換言すれば、私を同じ主にあるキリスト者として認知しない教会が増えるのではないかと不安になります。

> まあ、こんなことが学びの中から次第に見えてきているのです。面白いですか。自分だけが面白がって、悦に入ってしまわないように、要注意ですね。

学びの中から視野が広がっていく、それはすばらしいことです。その学問的展開を主が下さっている、すばらしいことです。しかし、今プロテスタントの教会に残っている稀有ともいえる礼拝儀式の一つである聖餐式のあり方は、それこそ何百年いや2000年間にわたる聖霊の導きが結晶しているのではないでしょうか?

愛する天のお父様、
HOLY COMMUNIONによって世界中のキリスト者が一つとされますように、
I師を、IN師を、N師を、K師を祝福してください
この教会をさらに祝福し守り導いてください。
愛する主のお名前で、アーメン


投稿時間:2002/09/08(Sun) 16:15
投稿者名:牧師
Eメール:
URL :
タイトル:
Re^3: 突然の割り込みを失礼します
> ヤドカリです。
> Tさんに続いて私も割り込みさせてください。
> これは手続きに関する質問ですが、教会が長い間実践してきた礼拝儀式のあり方を大きく変更しようとする時、信徒に対する事前の説明はなされないものなのでしょうか。聖餐式は、洗礼式と並んでキリスト者としての信仰の根幹に関わる儀式の一つのはずですが、その意味付けというかあり方を変えようというのなら、教会に集うすべての信徒が、何故 を事前に確実に納得できるよう十分な配慮がなされるべきなのではないのでしょうか。

※おっしゃる通りです。きちんとなされるべきだと思います。そして、基本的 な内容につきましては、先日の礼拝メッセージにおいて、枠付けした次第で す。今回エクレシアに掲載するものは、あくまでもより詳細な内容をお伝え することを目的としています。従って、基本的には聖日礼拝の枠組みを超え るものではないことを申し添えておきます。

> 先週の礼拝で来月から聖餐式を誰にでも開かれたものにするという先生の発表を聞いた時点では、私は、自分がイギリスに行って休んでいた3度の聖日礼拝の間にその説明がなされていたのだろうか?それにしてもこれからは、たとえば、「ワシは別に罪びとではないが、日本の神道よりも古いというキリスト教の『恵み』というかご利益にもあずかりたいからそのパン切れを食べさせてくれ」というランニングに腹巻ステテコのおっちゃん(ご利益を求めるこういうケースはまだ許せるかもしれない)やら、「よし、それがただのパンであって、2000年も昔に死んだイエスなる人物の身体などではないことを証明してやる、ワシにも食わせろ」というような輩などと並んで聖体拝受にあずかることになるのだろうか???こりゃ大変なことになった、と思っていました。

※おっしゃるご心配はよく分かります。で、その辺りが今までの躊躇の中心に なっていたのは事実です。そんなに軽々しいものとして扱って良いのかどう かということの重みは、教会という共同体を一つの結束を高める意味づけは あながち蔑ろにできないことであるからです。しかしながら、今回の改革の 中心点はまさしくそのところにあると言うことができます。
 単に間口を広げて、何でも良い、誰でも彼でも軽々にいうのではなく、あく までも、神の恵みの結晶ですから、その重みを感じつつも、その恵みに与り たいという率直な思いに立つ方なら、誰でも与ることができる、というお招 きをするつもりです。

>  しかし、次の書き込みを読むと、どうやらそうではないようです。
>
> > 今後、ウィークリィのエクレシアで、5回に渡ってこのことについては、論じます。国教の部分は、これでご理解頂けるのではないかと思います。
> > そして、国教化したキリスト教からの脱却は、やはり聖書から率直に読み出すことからなされると提言します。
> > つまり、西欧化した、つまりゲルマン捕囚にあったキリスト教ではなく、また、単なるキリスト教を非神話化して終わってしまう堕落したリベラル神学ではなく、日本人として、そして一人のキリスト者として、聖書を率直に読み直す中でつかみ取ってきたものとして、提言したいと思っているのです。

> つまり、こんな大切なことに関し、教会の軌道変更をしようというのに、その事前の説明はまったくなかった。これから五回に分けて説明をするからしっかり聞いておけとおっしゃっておられるようです。しかもその説明の最後の仕上げは次の聖餐式の当日に配布されるエクレシアでする????
> じゃ、もしその説明に納得いかなかったら、私は当日の朝になって教会に行ってから、これじゃ困るから帰りますということになるのでしょうか?そうなったら、その日の聖日礼拝はどうしたらいいんでしょう?

※ですから、基本的には9/1に説教しました内容を踏まえて展開するという ことです。そして、より丁寧に説明した内容を掲載するということです。
 それと、当日はまさしくお招きをします。ですから、もう少し正確に言うな ら、9/29において、国教捕囚の項目は終わります。
 10/6の分は、捕囚からの解放、ということで、あなたも招かれていま  す、共に主の食卓に与りましょう、というお招きをしたいと思っています。

> それとも、平信徒の私には、難しい神学の話などわかるはずもないから、考えるのは、牧師達に任せて、とにかく盲目的に牧師について来いとそうお考えなのでしょうか?

※盲従せよとは申しません。今後もないと思います。でも、この聖餐の在り方 一つとっても、試行錯誤の中で造り上げてきたものです。今回のことは、非 常に重みのある改革ではありますが、聖餐の位置づけや在り方の全てがこれ で完成、完璧になったとも思っていません。
 また、今後主の導きの中で修正されたり、向上を目指した改革が起こされる こともあると思います。
 また、もう一つ申し添えるなら、この教会になってから、聖餐は、 ハーフ・オープンにしました。つまり、未受洗者であっても、心で信じてい る方は「特別に」与って戴くことにしていたのです。
 これは、この教会を始める際にどうしても拘りをもって、踏み込ん だ改革でした。で、5年間の歩みを総括しながら、もう一歩踏み込むことに なったということが、今回の流れの位置づけになろうかと思います。
 つまり、「特別に」与って戴くのではなく、その方にも主が御心を開いて下 さっていることを、「当たり前」のこととして受け止めて戴きたいと願って いるのです。また、未だはっきりはしていないけれど、礼拝にはずっと出席 している。でも、踏ん切りはついていない。どうしたらいいのか。そういう ジレンマを抱えておられる方もおられます。
 小生は信じています。
 主はこのような人も御心に留めて下さっていることを。
 で、あの翌日裏切る弟子たちが、主の食卓に招かれて与ったのですから、ま たイエスを売ったイスカリオテのユダが、共に与ったのですから、我々が分 け隔てをできるだけなくして、お招きをすることは大事だと思うのです。

 日本という土壌を考えるなら、日曜日に、伊達や酔狂で礼拝に行くことはし ません。来られているという現実は重いと考えます。
 つまり、誠実に神に向き合っておられるので、礼拝にお越しになるというこ とでしょう。そういう方々が神の恵みに共に与って戴きたい。これが今回の 主旨です。でも、基本はフル・オープンになりますので、かなり踏み込んだ 改革になるという訳ですね。

> 昔、京都福音教会を中心として結成された教団がありましたね。女子に髪を切らせず、化粧もさせず、肌をあらわにすることは罪だからと水泳もさせなかったようですが、最近はみんな髪を切ったり、こてこてにお化粧したりしてるみたいですが、あれもある日「教職者」の先生方が、「実は私達の信仰はもともとこんなんじゃなかったんです。宣教師がそうせいっちゅうからしょうことなしにしてきたんです」とか何とか言って方針転換してしまったみたいでしたね。

※こういうことになりたくありませんね。
 残念ながら、上記のような歴史に、痛みを感じながら生きています。

> > それと、エクレシアはこのHPでも、見ることができます。
> > 10月6日号までで、一応の提言は纏めました。
> > この辺で、ご感想なり、また反論なり、頂けると光栄です。

> 私が一番ひっかってるのは、外に対しては「提言」、それもまだこれから本格的に提出されようとする提言でしかないものを、内においてはいきなり実践してしてしまう点です。仮に私がこの教会でしか礼拝をまもることがない、それこそルターを庇護したどこかの領主が身ぐるみ支配していた領民であれば、そんな心配は無用なのですが、私はよく旅先の教会で礼拝を守らせていただいています。その時に、あなたの教会は、信仰告白もしていない人にまで聖餐式にあずからせているそうですね。どうもそういう教会の方と聖体を分け合うことはちょっと控えさせていただきたいなどと言われる可能性が高まる気がいたします。現に、カトリックの神父の一部には、ペンテコステの群れにはユーカリストを拒む者がいます。今後そういう聖職者が増えるのではないか、換言すれば、私を同じ主にあるキリスト者として認知しない教会が増えるのではないかと不安になります。

※感謝です。「提言」という言葉が軽く聞こえたようですね。
 でも、そう軽くは思っていません。
 あくまでも、それぞれの教会には、歴史があり、伝統があります。
 まず、それを踏まえて、尊重する故に、「提言」という言葉を用いました。
 そうでなく、単なる「押しつけ」になっては、申し訳ないからです。
 また、異論があることも知っています。
 ですから、それらは全て間違いで、小生の語っていることが全く正しい、と
 言うのは、余りに分際知らずなことになってしまうでしょう。
 ですから、外に向かっては「提言」をしたということですね。
 
 そして、内側には、確信を持って信仰の行動に生きる者として、自分に与え られた責任にもとづき、説教で全体的な流れを方向付け、そして踏み込むと いう在り方になりました。
 実は、エクレシアにも記しますが、昨年の10月にも、同じ様なことを考 
 え、スタッフ会ではずいぶんと、いよいよ踏み込もうかと論議したことがあ ります。でも、その時は、確信へと至りませんでした。
 しかしながら、今回は主が心に確信を下さったので、踏み込んだということ です。他の教会は小生の直接的な責任範囲を超えていますので、こういう拘 わり方は致しません。

> > まあ、こんなことが学びの中から次第に見えてきているのです。面白いですか。自分だけが面白がって、悦に入ってしまわないように、要注意ですね。
>
> 学びの中から視野が広がっていく、それはすばらしいことです。その学問的展開を主が下さっている、すばらしいことです。しかし、今プロテスタントの教会に残っている稀有ともいえる礼拝儀式の一つである聖餐式のあり方は、それこそ何百年いや2000年間にわたる聖霊の導きが結晶しているのではないでしょうか?

※本当にそう思います。
 今、取り入れている方式、やり方、儀式自体の在り方、などは、実は色々な 教会においてなされている聖餐式の総合体です。
 そして、それぞれに工夫がなされていて、ギリシャ正教にもそれなりの深み と味わいのある聖餐式の方式があることも存じています。
 この多様性は、まさしく聖霊の導きの中で生み出されたものだと思います。
 そして、この教会にも、主は今回一つの使命を、つまり京都中央チ ャペルがこの教会として存在する所以を指し示すものとして、今回 の改革を下さったと信じています。

> 愛する天のお父様、
> HOLY COMMUNIONによって世界中のキリスト者が一つとされますように、
> I師を、IN師を、N師を、K師を祝福してください
> この教会をさらに祝福し守り導いてください。
> 愛する主のお名前で、アーメン

※主よ。感謝します。この祈りに支えられていることを感謝します。
 こうして、聖餐式の理解が深まっていくことを感謝します。
 主イエス・キリスト様が成し遂げて下さった十字架の業の偉大さに、心を打 たれます。そのことに比べ、私たちのしていることは何でしょうか。取るに 足りません。主の圧倒的なお恵みに感謝を申し上げるだけです。
 主よ。この教会を導いて下さい。
 そして、聖餐式がフル・オープンへと踏み込まして戴きましたが、これが聖 餐に与る者たちに、主の恵みを実感し、主の命の中に活かされることの喜び を深く噛み締める時となりますように。
 もし、与る者の中に、未だ救いを自らのものとして体験していないものがお りましたら、その聖餐の中に主が触れて下さい。聖霊が働き、その人の中に 信仰を生み出して下さい。単にパンを食べ、ジュースを飲んだに留まらな  い、神の深い臨在を体験することができますように。
 キリスト者たちも、なおなお、救われていることを、深く自覚し、主の恵み に力強く活かされていきますように。
 主イエス・キリスト様のお名前で祈ります。


投稿時間:2002/09/10(Tue) 00:20
投稿者名:ヤドカリ
URL :
タイトル:
Re^4: 突然の割り込みを失礼します
ヤドカリです。
早速のレスありがとうございます。

> ※おっしゃる通りです。きちんとなされるべきだと思います。そして、基本的 な内容につきましては、先日の礼拝メッセージにおいて、枠付けした次第で す。今回エクレシアに掲載するものは、あくまでもより詳細な内容をお伝え することを目的としています。従って、基本的には聖日礼拝の枠組みを超え るものではないことを申し添えておきます。

ヤドカリです:とすれば、私の「好み」からすれば、もっともっと丁寧な説明がほしかったと思います。というのは、私がこのような書き込みをしたという事実が語るように、私には理解できていないからです。たとえば、

> ※おっしゃるご心配はよく分かります。で、その辺りが今までの躊躇の中心に なっていたのは事実です。そんなに軽々しいものとして扱って良いのかどう かということの重みは、教会という共同体を一つの結束を高める意味づけは あながち蔑ろにできないことであるからです。しかしながら、今回の改革の 中心点はまさしくそのところにあると言うことができます。
>  単に間口を広げて、何でも良い、誰でも彼でも軽々にいうのではなく、あく までも、神の恵みの結晶ですから、その重みを感じつつも、その恵みに与り たいという率直な思いに立つ方なら、誰でも与ることができる、というお招 きをするつもりです。

ヤドカリ:この上の先生の説明程度のことは、礼拝説教の中で語っていただきたかったと思います。信仰が共有されていない限り、それはただのパンくずであり、色つき砂糖水になってしまうし、そのようなパンや砂糖水を甘んじて飲むとすればそれはとりもなおさず偶像崇拝に堕すことになると信じるからです。

> ※盲従せよとは申しません。今後もないと思います。でも、この聖餐の在り方 一つとっても、試行錯誤の中で造り上げてきたものです。今回のことは、非 常に重みのある改革ではありますが、聖餐の位置づけや在り方の全てがこれ で完成、完璧になったとも思っていません。

ヤドカリ:今回、ひょっとしたらこれが一番根本にあったかもしれません。仮に先生の学びが深まるたび毎に新たな試行がなされていくとするならば、下手をすれば毎年何か根本的な事柄に関して実験が繰り返されることになりはしないか?しかし、試行錯誤、実験というのは、本来的に理知の業であって聖霊の業とは言いがたいところがある。そこへの不安が今回の私の書き込みの一番の動機であったかもしれません。しかし、


>  小生は信じています。
>  主はこのような人も御心に留めて下さっていることを。
>  で、あの翌日裏切る弟子たちが、主の食卓に招かれて与ったのですから、ま たイエスを売ったイスカリオテのユダが、共に与ったのですから、我々が分 け隔てをできるだけなくして、お招きをすることは大事だと思うのです。

ヤドカリ:という先生の思いは私の思いでもあります。祈りの中で、そこに差し出されたパン切れの中に真実主の御身体を見、私の罪のために今流れ出でる主の御血潮を浴びる、一人でも多くの人々と共に聖餐に与かれる喜びを感謝します。


>  キリスト者たちも、なおなお、救われていることを、深く自覚し、主の恵み に力強く活かされていきますように。
>  主イエス・キリスト様のお名前で祈ります。

アーメン


投稿時間:2002/09/26(Thu) 00:10
投稿者名:ヤドカリ
Eメール:yadokari@chuochapel.com
URL :http://www.chuochapel.com/yadokari/dforum/bangaihen/43_49.htm
タイトル:
でもやっぱり偶像崇拝にならへんのかなぁ?
ずっと考えています。
いくら考えても同じところに戻ってしまいます。
洗礼という儀式を通過していなくても心で信じている人であれば、ぶどうジュースは聖所に導きいれてくださる主の血であり、割かれたパンのかけらは新しい生きた道に至る主の肉となります。
 しかしその信仰のない方にとって、私達の聖餐は土用丑のうなぎや、何の時だかにお寺で飲ませる甘茶程度の意味しかないのではありませんか?
 おそらく良心が弱いのでしょう。ひょっとしたら一部の人にとってはこの聖体も、「偶像に供えられた肉」程度の意味しか持っていないのではないかという思いが念頭から離れず、聖体そのものが汚されていく気がいたします。
 聖餐の意味を正しく認識することなく、またキリストへの信仰もあやふやな人に聖餐式に与らせるというのは、結局、パンそのもの、ジュースそのものに、何がしかの「御利益」があるから食べよということになるのではありませんか?そしてそれは、その人に偶像崇拝をさせることにはなりませんか?
 「私たちを神のもとに導くのは食物ではありません。食べたからといって、何かを得るわけではありません。食べないからといって何かを失うわけではありません。」という御言葉が頭に浮かんでは消えていきます。なんか、もう少し、すきっと理解させていただきたい気がしてなりません。