迷走と瞑想(1)

私の生活には2つの機軸がある。一つは毎日家でする瞑想の時間、今ひとつは海の上で過ごす時間である。端から見れば、一方は完全な静の時間、他方は絶え間ない動の時間と対極にある2つの活動であるように見えるらしいが、当の本人にしてみればいずれも同じ活動である。それは創造主たるわが神と向かい合う時間なのである。
[写真説明:イギリス・ソールズベリー大聖堂近くの桜
「神」などという言葉を口にすると、すっかり似非科学主義に毒された今の日本人は、とたんに一歩後ずさり、安全な距離をおいてから、よほど悪いことをした哀れな罪人か、精神のどこかに異常をきたした病人か、はたまた悪徳商法で一攫千金を夢見る超俗物をみるかの眼差しで眺めるのが普通だが、私は鈍感な人間であり、世の善人であれば良心の呵責に苦しむようなことばかりをしてきたのだが、信仰を持つ前は、別に「罪悪感」にくるしめられることなどなかった。つまりそれがきっかけで信仰をもったわけではない。精神は、昔も今もすこぶる健全なつもりだし、悪徳にしろ優良にしろいわゆる商売に関心もない、いわば、ごく普通の人間のつもりである。

その普通な人間がなぜ信仰をもつにいたったのか。ある春の日、京都は高野川堤を歩いている時に、この身に降り注ぐ花吹雪の中で、「散りゆく花びらに哀れを感じるか。上も見よ」という声が聞こえた気がして、その声に誘われるままに見上げると、実に美しい若葉が咲き誇り、そこには命が燃えていた。そう思った瞬間に全身を激しい衝撃が突き抜け、自分の罪深さを思い知らされ、同時に生命の恵みの大きさを知った。

以来私は、神による命の創造、キリストによる罪のあがない、そしてわが身の中にいてくださる聖霊を信じている。


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