夢トップ
Imagine there's no heaven
it's easy if you try
no hell below us
above us only sky
imagine all the people
living for today...

Imagine there's no countries
it isn't hard to do
nothing to kill or die for
no religion too
imagine life in peace...

Imagine no possesions
I wonder if you can
no need for greed or hunger
a brotherhood of man
Imagine all the people
sharing all the world...

you may say I'm a dreamer
but I'm not the only one
I hope someday you'll join us
and the world will be as on
e

天国なんてありゃしないよ
嘘じゃないって
足の下に地獄があるって?
上にあるのは空だけさ
みんな今日という
日のために、生きてる

国なんていらないよ
本当だよ
何のために殺し、死ぬってんだ
宗教もいりゃしない
争いのない世界になるぞ

財産なんて捨てちまえ
君もできるさ
欲も飢えもなくなるぜ
人類みな兄弟さ
たった一つの世界じゃないか
みんなで分かちあおうよ

夢物語ってか
でも俺だけじゃない
君もいつかそう思うようになる
そしたら世界は一つさ

訳詞:蟻様翻訳サービス


アフガニスタンでの出来事で印象に残ったこと--イマジンという曲を聴いて

評言 by 芳言

  昨年9月、ニューヨークにあるワールドトレードセンターとアメリカ国防総省に飛行機が突入した。以来、テレビでも、新聞でも、そして『週間ポスト』でも『フライデー』でも、アフガニスタンにおける出来事を、報道し、取り上げない日は無かった。テレビという箱の中で繰り返し映し出されるビルに突入する飛行機の映像、ひげを蓄えたビンラーデン氏の姿、ブッシュ大統領の演説する顔、パキスタンのムシャラフ大統領の背広姿(彼は軍人ではあるが、意外と背広姿が似合っている)、武器をもつ兵士、アフガニスタンの地図−。同じようで違うこと、違っているようで同じようなことが繰り返し語られていた。さもアメリカがアフガニスタンにおいて軍事行動を起こすのが当然のように、戦争が長期にわたってなされるのが当たり前であるかのように人々は語り、検証し、討論し、今後の展開の予想を熱く語っていた。ついでに書けば『ワンダーズ』でも特集が急遽組まれた。

 そんな中、耳を引くニュースがあった。新聞に掲載されたいくつかの単語の組み合わせ。短いフレーズ。ジョン・レノンの究極の平和の歌とされる、イマジンという歌の一節...。今は無き故ジョン・レノンの妻、日本の名家出身、オノ ヨーコがこの一節を用いて、全面広告を掲載したという報道だった。それは何も長い言葉ではなかった。いや、単なる一文だったのだ。けれど、何か心に響くものがあった。「想像してごらん、人々が平和に暮らしている姿を−」。威信とプライドを傷つけられたアメリカという国家。報復を訴え、憤る人々の群れ。そんな中、掲載されたこの広告。驚きがあった。そして、改めてこの曲を聴いた。もちろん数年前のイラクのクエート侵攻に端を発した戦争の最中にもこの曲は聞いた。ボスニア=ヘルツェゴビナの時も、イラン−イラク戦争の時も流れていたし流されていた。けれど、今回ほど印象に残ることは無かった。

 確かに、イマジン自体、歌詞は良識有るキリスト教徒なら卒倒する表現もみられる。「想像してごらん、地獄も天国も宗教も無い世界を」と歌っているのだから。だからこの歌を、歌詞がキリスト教的でない、悪い歌と決めつけるのは簡単だ。聴くに値しない、悪しき歌と決めつけるのはたやすいことだろう。曲はいいのだけれど歌詞はちょっと、と思ってしまうのだ。けれど、歌詞の善し悪しを越え、考えてみたいことがあるのだ。

 僕は歌詞にあるように、「You may say I'm a dreamer (おまえは夢を見てるだけじゃないか)」とあざける側の人間だ。「平和を想像する?そんなことできっこないし、ありえないことさ」と。

 僕にも、「宗教が原因で、一体、何人の血が流されてきたんだい?」と問いかける気持ちは常に強くある。けれども、もう一方で、聖書の語っていることも知っている。「平和を祈れ」という一文が有るということを。
「平和を祈る」。確かに、愚かしく響く。戦争のない時代なんてほとんど無いし、宗教と権力とが結びついた結果、おこされた戦争だって有る。

ただ、もう一方で、「想像」を形にできる「祈り」というものがあることも僕は知っている。誰かが言っていた。法螺とビジョンの差は信仰があるかないかということを。例えば、祈りの家αββαハウス。京都の中央部に祈りの拠点を作りたい、そういうビジョンを牧師が与えられたと言ったのを受けて、みんなで祈り求めた。だからこそ、2階で各種礼拝、水曜祈祷会をもち、3階で子供達が遊び、1階で我々はコーヒーをすすることができる。

 イマジンを聞いて思うこと、それは、平和はいくら想像したって手には入らない。信仰をもって祈り進まない限り手には入らないものだ。しかしながら、分かったように書いている自分を振り返ってみて思う。「平和を求める祈り」を果たして僕はしてきたのであろうか。そんな記憶を僕はもってはいない。

 おおかたの予想に反して、軍事行動はほぼ収束に向かいつつあり、予想通り、ビンラーデン氏は未だ捕まっていない。イスラエルとパレスチナの和平合意は過去の話となり、インドとパキスタンでは核のボタンが押されるのでは、という不安がある。平和とはほど遠い事態であることは言うまでもない。

 こうした状況を打破すべく、平和運動に名を連ねている教会の名を見かけることがある。確かにそれはそれで、いいだろう。戦争で植民地化した朝鮮半島に関する教科書題で抗議団体の一翼を担っている教会も有ると聞く。納得できる部分も無くはない。けれど、署名運動やデモに参加することに費やす時間以上を祈りに割いているのだろうか、協賛機関に教会の名前が有るたびに僕は問いかけたい気持ちになってしまう。戦争の噂を聞く、不安な時代。平和を想像する気さえ萎えてしまうような現実。だからこそ祈る必要が有るのだ。

「地の上には平和が有りますように」