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「口笛を吹く気分」

主任牧師 藤林いざや

最近のことです。フト、道を歩いておりましたら、何とも不思議な顔つきで振り返る方がおられます。そして、大生の顔をチロッとご覧になるのです。お一人、二人ではありませんので、些か心配になりました。顔に何か付いているのかしら、と思ったのです。

でも、事務所に戻って鏡を見ても何もついていません。果て、どうしたことかと思いつつも、また忘れておりました。すると、また道を歩いていると、振り返って大生の顔をご覧になる方がいらっしゃるのです。大生も自分では知らない内に、有名に成ってきたのかな、と思いきや、ハタと思い至りました。そうです。口笛です。口笛を吹いて歩いていたので、皆さんが振り返ってご覧になるのでした。

なーんだ、と思いつつも、「口笛を吹く気分」ということを考えておりました。どうして口笛を吹きたくなるんだろうか。理由はシンプルです。何となく、浮き浮きしている心があるからですね。心がどんよりしていては、口笛など出て来やしません。別に特段凄いことが控えている訳ではありません。取り立てて、物珍しいこと、嬉しいことがあったということでありません。でも、何となく、嬉しいのですね。 それ以来、意識して我慢していないと、知らず知らずの内に、口笛を吹いてしまっていることに気付いたのです。やはり、湧き上がってくる嬉しさ、というものは、隠しようもないのだなと、改めて実感した次第です。

さて、時々、歩いていらっしゃる方の表情を眺めることがあります。自転車に乗って走っておられる方の表情も目に入ります。そして、思うことは、実に深刻な表情、重苦しい雰囲気の方が非常に多いということです。何だか、笑顔で歩いてしまっているという方は、少ないのです。どちらかと言えば、表情硬く歩いている人が多いですね。

果て、キリスト者として日常的な歩みで、どんな表情をしているのかは、大切なことではないかと思うようになりました。今朝のメッセージでは、キリスト者の雰囲気ということを語ります。キリスト者が湛えているべき雰囲気がある。それは信仰、愛、希望だ、というものです。これはパウロ書簡に一貫して流れている主張です。

そして、2千年の月日が流れた今も、一貫して主張していきたいものです。

先日、平野啓一郎氏の『決壊』上下(新潮社、2008年)を読み切りました。文体の重厚さ、圧倒的な言葉の威力に、多少気圧される思いをしながらも、ある種無我夢中で読み進めさせられてしまいました。そこには、現代社会が実に鮮やかな筆致で描き出されていました。そして、知力の限りを尽くして、人間としてどう歩んで行くのか、真摯な問いがあったのです。取り分け、京都を舞台にしたバラバラ殺人事件を契機に展開していきましたので、思わず引き込まれたということもあります。でも、何よりも現実に生きている人間の生々しい姿、更にいえば、展開の中に登場してくる「悪魔」という存在が、正しく「罪の支配」を浮き彫りにしているのです。その意味で、キリストの福音には、力があるのかという問い掛けも受けたような気がしました。最後には、外から声がします。しかし、その声は、神の声ではなかったようです。人を生かす力はありませんでした。

重苦しい気分にさせられる小説でした。そして、それは通常後を曳くようなものになるはずです。でも、気付いて見ると、自転車に乗りながら、口笛が奏でられていたのです。 最早、罪の支配に居ないというキリスト者の現実は、爽快な心と、浮き浮きした思いを豊かに与えてくれるものなのだと、改めて痛感した次第です。 さあ、新しい一週間も、主の恵みを賛美しながら、浮き浮き過ごしたいですね!

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