![]() αββαハウス |
| Doctirina Christan(ドチリーナ・キリシタン)とはキリシタン到来時代に、日本への宣教に大きく用いられた信仰問答集です。 京都にキリシタンとして生まれ育った中央チャペルの牧師伝道師が皆さんの疑問・問い合わせに懇切丁寧に答えたり、ともに考えたりしながら、21世紀版ドチリーナ・キリシタンを作り上げていきます。どんどん疑問・質問をお寄せください。 |
| 疑問・質問はbokushi@chuochapel.comまで 京都中央チャペルの理念はこちらです。 教会のモットーはこちらにあります。 |
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| @どんな人が集っていますか。 |
| とにかく、ユニークな人たちが集まっています。個性と掛けて、教会と解く。その心は京都中央チャペルなんて言われている位です。 さて、何故、こんなにユニークな面々が一同に会することが出来るのか。それは次に述べます「福音」によって、「新しい人」として生かされ ているからです。福音によって罪の支配から解放されますと、神が創造して下さったその人の本来性、これを「新しい人」と呼んでいますが、それが遺憾なく発揮されるようになります。すると、灰汁の強い個性ということではなく、灰汁(悪)が抜かれた、キリストにあるみずみずしい個性が豊かに溢れてくるようになるのです。これが実は、教会のメンバーが個性的であるということの理由です。 |
| A法人格は「京都福音教会」だそうですが、「福音」ってなんですか。 |
| 福音とは、「良い知らせ」のことです。英語では「ゴスペル(Gospel)」と言います。最近流行のゴスペル・ソングは、福音が織り込まれた歌、という意味ですね。 どんな人も、罪に縛られ、その支配下にある存在だと、聖書は語ります。戦争があり、いがみ合いが絶えず、憎しみが憎しみを生んでいくのは、この罪に呪縛されている故なのです。しかし、既にこの罪から解放される道が拓かれました。それがイエス・キリストの十字架です。 十字架上で死に、葬られ、三日目に復活することを通して、イエス・キリストは罪の支配を一切合切処分する道を開いて下さいました。この御方を救い主と信じ、心に受け入れるだけで、私たちは、自らを縛っている罪もろとも、キリストと共に十字架について死ぬことができます。死ぬだけではなく、キリストが葬られたように、一切の古き呪縛を葬ります。そして、キリストにあやかって復活し、新しい命に生きることができるのです。 この過程を通って、人は「新しい人」として伸びやかに生き始めることができるのです。 憎しみに変えて、愛することを、恨みに変えて、赦すことを、拒絶に変えて、受け入れることを、私たち自身が現実のものとして受け止める存在となるのです。 これって、良い知らせでしょう。だから、この救いの道を「福音」、「良い知らせ」と呼んでいるのです。そして、一人でもたくさんの方に知って頂きたいと願っているのです。 |
| Bペンテコステ派と聞きましたが、キリスト教なんですか。 |
| はい。正統的なキリスト教のプロテスタントに属する一派です。 もう少し詳しく申しますと、歴史をたどると、今から約100年前にアメリカで誕生し、今は全世界に広がっている「運動」だと言えます。 特徴は、聖霊を強調することにありまして、今生きて働かれる神様を、実体験しながら生きていくことを強く勧めます。 最近開かれた理解を申し上げるなら、キリストが復活後昇天しましたが、神の右に座しておられるだけではなく、聖霊を注ぐことを通して、今度は私達一人一人が「今を生きるキリスト」として働きを担うのだということを、受け止めていくことです。つまり、平たく言うと、キリスト者、クリスチャンというのは、「キリストはん(さん)」のことなのです。 それと、礼拝は割合感情表現は豊かです。誰でも、野球でイチローがヒットを打てば興奮し、ヤッターと叫ぶでしょう。中田がゴールを 決めたら、ワッセワッセと肩を揺らせて喜ぶでしょう。それ以上の御方が、何ものにも比べられないような比類無き御方が、私たちを通して偉大な働きをして下さるのですから、またそれを実感することが出来るというのですから、興奮しない訳にはいかないということですね。だから、単に人間的な興奮状態にあるというよりは、生きた神を実感する喜びが爆発するというような意味合いが強いと言えましょう。 |
| Cなんで同じ京都市内で、しかも割と近い場所で別々に礼拝してるのですか。 |
| 北区上賀茂本山にある本部は、創立者藤林邦夫師とトムソンというアメリカの宣教師の働きの中で生み出されました。但し、立地条件と して非常に奥まった場所にありまして、しかも土地自体は道のどん詰まりにあります。そこで、約30年に渡り教会の営みがなされていたのですが、人通りもほとんどない状態でしたので、人を集めてくるということに取り分け苦心惨憺していたのも事実です。 そこで、創立者の藤林邦夫師が亡くなって5年目のことでしたが、1997年に京都中央チャペル創立されました。これは名前の通り、京都という町の中央に出ていき、先に述べました良き知らせ、福音をより多くの方にお知らせしようとしているのです。 |
| D聖書ってどういう本なんですか。 |
| まずは、旧約聖書と新約聖書の二つに大別されます。そして旧約聖書は全部で39の書物から成り立っています。そして新約聖書は27の書物の束です。 で、一言で言うなら、旧約、新約の「約」という文字が、聖書の本質を現しています。それは「契約、約束」の「約」です。つまり、聖書の中には、神様が人間に下さった約束、契約というものが充満しているものだということです。 中でも、「わたしはあなたを見捨てず、あなたを離れない。わたしはあなたを愛している」という約束は、その最たるものの一つです。 愛されているって良いですね。それも、絶対に見捨てないって、何て有り難いことでしょう。天地を造られた神様の約束です。 何故、こんな愛情を注いで下さるのでしょうか。それは人間が神のかたちに、つまり、神の子として創造されたからなのです。そして、神は人を見ておっしゃいました。「これは本当にステキだ!超ベリー・グッドだ!」と。人間は神様がお造りになった、傑作(マスター・ピース)なんですね。これを知って欲しい、そしてこの事実を受け止めて生きて欲しいと願われた神が、色々な人たちを通して、語って来られたのです。 それがまとめられて、「聖書」となって、今私達の手元にあるのですね。 |
| Eヤドカリ教会ってなんですか。お金がない教会なんですか。 |
| お金は天下のまわりもの、ではなく、天の神様のものですから、ご心配なく。もう少し平たく言うなら、神様によって心を動かされた方々が、真心をお金として献金します。それによって教会の全ての働きは運営されていくのですね。あなたも是非ドシドシお捧げになって下さい。人生の醍醐味は、与えることにあります。これを教会で学びとるのですね。 さて、「ヤドカリ教会」の意味は、深遠なものがあります。でも、あっさり申しましょう。 第一の意味は「宿を借り」ている教会ということです。つまり、教会の礼拝場所を基本的に貸し会場にしているということです。まあ、読んで字のごとくということです。 第二は大切です。貝類のヤドカリのように、成長に応じて、借りる場所を変えていく、柔軟性をもった教会という意味を持っています。ヤドカリは、自分で貝殻を造るのではなく、自分が大きくなったら、少し大きめの貝殻を探して移動します。それを繰り返して大きく成長するのです。このようなイメージを教会に重ねました。 で、私たちも営みの中で、幾度と無く脱皮を経験したのです。いよいよ、本格的に教会堂を取得するという脱皮が目前に迫ってきました。但し、自前の会堂を持ったとしても、それは専用に礼拝をし、様々な活動を展開する拠点が与えられただけであって、教会としては更なる成長を目指して前進して行くのです。ヤドカリ体質は終わりません。 このようにちょっとずつ、でも確実に集まってくる人数が増え、活動が充実するという、成長する教会でありたいということを、ヤドカリ教会の名前に託しているのです。 |
| Fなんで牧師さんが何名もいるんですか。 |
| 大抵のキリスト教会は牧師が一人でしょう。で、数十年一人の牧師から説教を聞いて過ごします。でも、何名もいる理由は、バラエティに富んだ働きをするためということです。 更に言うなら、ある面チームで働きをすると、一人でやるよりも、何十倍も色々なことができるのです。これは 神様の働きを効果的に、また機能的に進めるためにも大切な事柄です。 教会にはウィークリィ(週報)なるものがあります。一つ一つの教会が大切な機能として、情報周知手段として用いています。で、考えてみれば、全部の教会が同じ機能を果たしているということになります。もちろん、それぞれが違う教会ですから、必要な情報も違うでしょうし、当然でしょう。でも、チームでやっていると、一人が週報を作成することに従事している間に、他の人は別の人と面談をする。集会を導く。街頭で伝道活動にいそしむということが可能となります。多面的な働きをするために、また一つの働きを深化させていくために、複数で複合的な教会の働きをしているという訳です。 |
| G急にあらたまった気持ちで祈りたいと思ったらどこへ行けばいいんですか。 |
| 数年来不自由をおかけしましたが、2001年11月28日に、αββαーHouse(アバ・ハウス)という「祈りの家」を無事取得することができました。これまで共にお祈りくださった兄弟姉妹と共にすべての栄光を主にお返しいたします。 「αββα(アバ)」というのは、聖書の中で用いられている天地の創造主なる神様に向かって呼び掛ける呼び名の中で、最も親しみのある言葉です。日本語にすると「パパ」とか、「お父ちゃん」という ニュアンスでしょうか。 つまり、凄い神様だけれど、自分のお父ちゃんとして呼び掛けることが出来る場所として、神様にお捧げしたいと思っているのです。 この場所が既に開かれていますから、いつでもお祈りにお越し下さい。 更に、毎週の日曜日に行われている礼拝や、水曜日・金曜日の祈祷会にもいらして下さい。祈りの中で生きた神様との深い交わりを持つ世界へと導かれていくことでしょう。 |
| H日曜日に集まるのはなぜですか。 |
| 日曜日は一週間の「最初の日」として考えています。そしてその一番最初の時間である朝に礼拝を持つことによって、この一週間の歩みについて、神のお守りと助けがあるようにお祈りするのです。何事も初めが肝心です。スタートダッシュに成功することが、勝利の秘訣です。その意味で、日曜日の最初の時間を神とお交わりするためにお捧げすることは、勝利の生活に不可欠なことなのです。 更に、旧約聖書から深い意味が示されています。それは「安息」ということです。人間は働きづめではくたびれます。忙しいというのは心を亡くすと書きます。ちゃんと休むことが、仕事に益になるでしょう。 でも、心の安息はどこで得ますか。それは天地の創造主なる神、そし て私たち一人一人を創造して下さった方の前に出るとき、真の安息を得るのです。だから、心身ともなる健康にとっても大事なのです。 もう一つ重要なことは、キリストが日曜日に復活されたことです。つまり、日曜日の朝礼拝に集う中で、自らのアイデンティティ、自己認識を確認するのです。キリストに合わせられて、今は新しい命に生きている。今週も、今を生きるキリストとして力強く生きるぞ!と明確に自覚するのです。 人間はマンネリ化しやすい存在ですから、尚のことハッキリと自覚することが大事になるのですね。毎週新鮮な気持ちでスタートすることは、本当にステキなことですよ。 |
| I水曜・金曜祈祷会ってなんですか。 |
| これは「教会とは何か」ということと関連しています。つまり、教会というのは、生きた神と交わりをする「場」だと言えましょう。もちろん、日曜日の礼拝自体もそうなのですが、より神との交わりを揺るがぬものとして、体験し深めていく場が祈祷会なのです。 日曜日と日曜日の丁度真ん中辺りで、自分自身を顧み、更に信仰者として力強く歩むために、祈りの時を持つのです。 共に集まって祈ることの重要性は、そこに大きな霊的な磁場が生まれることにあります。使徒言行録の中でも、初代教会が共に集まり、祈っている時に、不思議な神の御業が現されました。京都中央チャペルでも、共に祈って前進した時に、αββα―HOUSEが与えられました。神のより大きな働きを現実化する道筋が、共に祈ることなのです。 更に、教会とは、神によって召し出された者の集団です。決して教会「堂」が教会ではありません。「人々の集まりこそ」が教会なのです。ということは、神との交わりを教会として体験し、更に強固なものとされていく機会、それが水曜・金曜祈祷会だと言えましょう。 是非あなたもこの祈りの場にいらして下さい。そして生きた神の働きを共に体験して参りましょう。 |