芳言、伊勢神宮を訪れる

 酷暑のおり、訳あって伊勢神宮を訪れた。暑い日差しの中、白い砂の上を歩いた。うっそうと茂る木々の陰に入っても暑さは変わらず、汗がひく事は無かった。

 それにしても、さすがは神社の中の神社、である。本宮内の拝殿にせよ、参道に配置される末社にせよ、小さなほこらにせよ、手を合わせ拝みたくなるような雰囲気を醸し出している。何も抵抗無く皆が手を合わせている。そして何かに向かって手を合わせている、拝んでいる−。一体何を拝んでいるのだろう、何を祈っているのだろうか?

 家内安全、無病息災、交通安全、大願成就、学業向上、容姿端麗、明朗活発、高額年収、相思相愛、恋愛革命(Byモー娘)...。さすがに恋愛革命を祈る方はおられないにせよ、祈願内容は人それぞれで、手を合わせるという短い行為の中にいろいろな思いが凝縮されていることであろう。それにしてもその姿は敬虔で、場所の雰囲気も相まって、手を合わせ、祈ってる姿がすごく自然に見えた。逆に参拝もせず、ほろほろ歩いてる自分は一体何をしてるのだろうか?と思わされたことであった。

 その後、ある日曜日の礼拝後、牧師に祈っていただいた。祈りをお願いする、このこと自体、勇気がいることだった。また、次の礼拝前のせわしない一時、時間がないのに祈っていただいていいのか??去来する思いを「振り払い」、申し出て、共に祈っていただく。牧師と手を合わせ祈る。確かにその時は周囲が気にならなかったものの、終わった後、周囲を気にする自分がいた。

 幼き頃、そして中高生時代の記憶がよみがえる−。礼拝後、前に出て祈りはする。しかし、周囲を気にしていた自分の姿−。あの人よりも遅く、ひざまずき祈り初めたのだから、頑張ろう。あの人が祈り終わったのだからもうそろそろ−祈ってる割には周囲の目が気になって仕方なかった頃。その時と本質的にはあまり変わってない自分がいた。

 後日、クリスチャンでない方とお話しする機会があった。彼は言った「うーん、無宗教だけど、伊勢神宮に行けば、手を合わせるかもしれんなぁ」と。これは、すごいことだと思った。教会で祈ることにぎこちなさを感じている自分にとって「祈りの宮」と唱えられるべき教会の姿って、あるんだろーか??と思わされた。

 祈る姿が自然、誰かしら祈っていて不思議でない、いや、神を信じる信じないは別にして、誰もが思わず敬虔な姿をとってしまうような教会−。そんな教会、あるんだろうか?我々は今現在、事務所が与えられるように祈っている。祈っている。けれど、果たして、訪れる者皆、誰もが祈っていて自然、そんな雰囲気の祈祷室をもつ事務所になるのだろうか?そんな問いかけがこの伊勢神宮訪問を切っ掛けにわき起こり始めた事だった。

 礼拝を教会堂で行ってる皆さんへ−

 はたして、あなたは自分の教会で、自然体で祈っておられますか?また、祈っておられる方を見られて、どう思われますか?

 京都中央チャペルの皆さんへ−

 会堂を持たない我々にとって「祈りの宮」って、どんなんでしょう?

 正解の無い問いかけですが、また、感想なりBBSへのカキコ、待っています