Miracles教会案内板ラマンその2


 これから提示する作文−読書感想文−は2年前、京都中央チャペル週報『ミラクルズ』
に掲載されたものである。旅行記に続き、読書感想文をネタとして投稿したところ採用された第一号でもある。この文に関しては、反応が珍しくあったようで、意見が投稿・掲載され、それに対し回答するなど、この教会の週報ならではの動きもあった。
 今回、フロッピーを取り出し、読み直し、提示する気になったのは、結婚して間もなく半年に突入しようとしている私個人の思いによる。結婚し、子作りというオブラートな表現に包まれた「SEX」という行為をするようになった。結婚後の心境は、今後記すこともあるであろうから、あえて触れないでおきたいが、結婚する前に記したこの作文は自分の結婚観を形成する一つの過程をしめすものであった。今後、以前から書いてみたいと思っている『プラトニック・セックス』(by飯島愛)、『命』(by柳美里)の感想文に取り組む予定である(あくまで予定)。で、その前に、初めて書いてみた感想文を今一度提示し、意見を求めたくなったのだ。ご一読くださり、京都中央チャペルの方にメールをくだされば幸いである。
 では、早速...。


『ラ・マン(愛人)』M.デュラス 仏 1984 清水徹訳 河出文庫

 結婚観を問われると、答えに窮してしまうことが多々ある。
 これには理由があって、結婚観は家族観にも通じるところがあるし、人生観や死生観、経済観にだってリンクしている。つまり、結婚観とは単体で語られるべき事柄ではないことに気付いたためである。当然、セックス観も大切な要素である、と最近の教会生活の過程で気付かされている。今回、本書を再読し、感想文という形で提示したのは、自分の考え−特に混沌としているセックス観を見直す契機にしたいがためである。簡単なことを変に難しく考えてしまう癖に、しばらくの間、おつきあいくだされば幸いである−−。
 この作品は、年老いた女流作家が、自らの過去−1900年代初頭、当時フランスの植民地であった南ベトナムにおいて、少女から大人の女性へと変化していった過程を記した自叙伝的な作品である。主人公である少女は、夢や野心を抱きつつ入植してきたが没落した家に生まれ育った。教師である母、放蕩無頼な長兄、ひ弱な次兄、それが少女の家族である。15歳半の彼女は、家族と離れ、寄宿舎生活をしている。そして、親元から寄宿舎へと戻る途中に通過するメコン河の渡しにおいて、金持ちの中国人の青年と出会ったところから物語は始まる。
 ...少女から大人へと変化する契機となったのは、初めてのセックスである。落ちぶれたとはいえ支配する側に位置する者の娘が、支配される側の裕福な人種(華僑)とショロンの連れ込み部屋で初めてのセックスを経験する。いや、それどころか、関係を保ち、愛人もどきとなる。相手を蔑視しながらも関係を持ち続ける。歪な屈折した経験を主軸として、家族とそれ以外の人に対する思い、また、この作品を書き記すまでに経験してきた自らの人生が随所に挿入され、一つの物語を形成している。
 この小説が、単なる、ポルノ小説と堕していないと思えるのは、現在の視点と過去からの視点の交錯、そして文体の響きが洗練されているせいかもしれない。初めてのセックスの視覚的な表現と、男と別れたことで彼を愛していたことに気付き、少女が泣くシーンでの聴覚的な表現などはその例の様に思われる。
 さて、少女は15歳の時、初めて性体験を経験したことがこの物語で語られている。フランスはご存じの通りカトリックの勢力が強く、(この小説に対する)支持もあったろうが、おそらく反発もあったことは想像に難くない。だからこそ、この小説に対する反応なり、議論が巻き起こったのであろう。しかしながら、我が祖国、日本ではどうであろうか−−。
 婚前交渉?セックスを15歳くらいで経験する?金持ちの愛人となる?確かに、この映画を見、小説を読んだ時、それなりの衝撃はあったものだ。しかしながら、読み直してみて、さほどインパクトが無くなっている自分に気がついたのだ。
 現在、セックスの初体験の低年齢化が加速度的に進んでいる我が国では、婚前交渉なんて当たり前になっている。援助交際なんて言葉は定着したらしく、すでに過去のものとなっているようだ。そして、ずいぶんそういった考え方に対し、抵抗感が無くなっている自分がいる。僕自身としては、男女問わず、する機会があれば、別に、セックスをしてもかまわないし、否、むしろ男女間の相性を確かめる手段として必要なものかもしれないとも思う。現代日本においては、もはや婚前のセックスはタブーでないし、低年齢で経験していない方がむしろ異常な人種に見られることを知っているからだ。しかしながら、最近、その代償の大きさと危険性が増大してきている様な気がしてならない。
 この作品でも、その代償が具体的に語られている。それは、精神的な老いであるし、本当に老いたときの自分の姿である。この作者は、若くして老いたことに気が付いたし、それを肯定し糧として作家生活を不動のものとした。また、この作者は自らの放蕩な性生活の始まりを記すことで更なる名声を得た。これは一つの超克と言えよう。
 しかしながら、その行為に物語性が無い者、何の名声も得られない者、その経験すら記せない者は一体どうなるのだろう?外面に見えない部分が老い、そのことに気付きもせず、その行為を肯定も出来ないのならば、その経験はむなしいものに過ぎないと言えないだろうか。
 これは女性の視点ではなく、男性の立場からの発言となるが、現在いわゆる中年層にED(勃起不全)が増加傾向にあるという。科学的根拠のない話ではあるが、男性にとっての精神的な老いの現れとして、これがあてはまるのかもしれない。
 また、もう一つのリスクとして、セックスが生命の誕生に関わる行為であり、この事柄があまりにも語られなくなっている、ということが挙げられる。この物語でもそうなのであるが、行為について得られる快楽に関しては記されているが、命に関わる問題に対する視点が欠落している観は否めないのだ。物語中、少女は快楽を得たが、新しい命を宿したとは語られてはいない。しかしながら、快楽の結果、妊娠、そして堕胎が、老いの原因となる可能性はあるのではないか。セックスによって得られる快感が語られ得るのだとすれば、命の誕生もまた、同様に語られる必要があると言えよう。
 最後に、先に挙げたことを結婚前に気付いたことは果たして自分にとって幸か不幸か?
 これは神に問いかける必要があろう。また、自分にとって、聖書の説く事柄の是非は、結婚して初めて見いだせるものなのかもしれない。

ラマンその2